ブックレビュー アラン『幸福論』 連載32回目

皆様ご機嫌麗しゅう・・・

どうせ雪降るんだろ?え?

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ではスタートです


今回は

88.詩人 89.幸福は美徳 90.幸福は寛大なもの

です。

88.詩人

ゲーテとシラーという、詩の超絶巨匠二人の友情から始まるこの章

詩人や全ての芸術家は、幸福というものによって、自分にできること、できないことを知らされるのだ(88:詩人)

完璧なものは決してたがいに衝突し合うものではなく、争い合うのは、不完全さか、もしくは悪徳だけだ(88:詩人)

だからゲーテとシラーは議論しても、自分自身をグラつかせることが無かったのか。。。

この二人の往復書簡はなんと1000通にものぼり、1805年シラーが亡くなった時、誰もゲーテに知らせる勇気を持てないほどだった。ゲーテはシラーの死を知った際

「私は友を失い、私の半分を失った」

と嘆き悲しんだそうです。

そして最後にこのことばをご紹介します。

意地が悪いといわれる人たちは、すべて退屈することによって不満なのだ(88:詩人)

SNSで罵詈雑言を尽くすようなお歴々は、きっと退屈しているんでしょうね。

退屈といえば、『暇と退屈の倫理学』

暇と退屈の倫理学 (新潮文庫) 国分 浩一郎著

・・・マジでいい本でした。こっちもいずれご紹介します。

89.幸福は美徳 

幸福って難しいですね、”誰かのためになることを自分の幸福にする”」のって、一見良いことのように見えますが

穴の開いた革袋に酒を注ぐように、周囲の人々に幸福を注ぐことほど、むなしい仕事はないからだ。(89:幸福は美徳)

と、アランさん手厳しー・・・

逆に

少しも物欲しそうにしていない人たちには、何かを与えることができる(89:幸福は美徳)

幸福な人たち(=物欲しそうにしていない人たち)同士でやり取りしないと幸福でいられない、

だからまずは、自分の幸福を追求しなさいという訳です。

ここでいう幸福は、

わたしたち自身の能力に依存する幸福(89:幸福は美徳)

です。

そういう幸福はそれ自体が美徳で、それが備わっている人は、それ以外の幸福(遺産相続したり、宝くじが当たる、みたいなラッキー的幸福や、名誉みたいな外的要因のあるもの)を

いとも毅然として投げ捨てる(89:幸福は美徳)

事が出来るわけです。本当の幸福は、失われることがないのを知ってるから。

90.幸福は寛大なもの

幸福になろうと欲し、それに身を入れることが必要である(90:幸福は寛大なもの)

なんでもいいんですが、何かをやっている最中は幸福だ不幸だなんて考えないはずです。

それは、やってることが体の中に入ってるから。

幸福もおんなじで、眺めているだけではだめなんです。

ワタクシがこの章で最も大事にしたい言葉はこちらです

わたしたちが自分を愛してくれる人のためになしうる最善のことは、やはり自分が幸福になることである(90:幸福は寛大なもの)

人生は長い。正直しんどい。つらい。

だからこそ、何もしないとよりしんどいことが心にのしかかる。

だから、やりたいことをやりましょうよ。長いとはいえ、嫌なことに長いこと縛られるのは

私たち人類同類は、わたしたち自身にとってもっとも心地よいものしか、決してたがいに要求しない。(90:幸福は寛大なもの)

いい言葉ですね。でも、いま、そうなっていないような気がします。

イラつくための材料を探している。特にSNS怒りを爆発させるための、導火線に火をつけるための火種を鵜の目鷹の目で探す、そんな雰囲気を感じます。

だから最近はあまり見ないようにしてます。みなければ、”身体に入ってくること”ないですからね。

機嫌よく生きることとリラックスしていることは幸福には欠かせませんもの。

※この90では、第30回に出てきた『礼儀』について触れられていますのでそちらもご参照いただければ・・・

次回でいよいよ最終回です。

・・・長かった(お前のせいだろ)

ではまた来週。。。Cyaoノシ

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