だいぶ久しぶり(多分あまちゃん以来)に朝ドラ見ております。
いいですね『おかえりモネ』・・・
ちょっと前ですが、浅野忠信が泣きながら心境を吐露するところなんて、ねぇ・・・
朝から泣かせるなよ・・・
と、ここからが本題。
『幸福論』ブックレビュー
誰か一人でも読んでくれれれば、この時間が無駄にならないなと前向きに考えて更新しております(希望的観測)
連載3回目でございます。
第3回目は
5.ふさぎの虫
6.情念
をレビューです。ふさぎの虫って・・・
5.ふさぎの虫
病気(腎臓結石)の友人にアランは
「この病気が気をめいらせるものだということを知っているのだから、気がめいることに驚いたり、不機嫌になったりしてはいけない」
と言ったのだそうです。一見残酷な言葉のようにも思えますが、一番当を得た励ましのように思えます。
深い悲しみは肉体の病的状態の結果なので、それ以外の心痛はいずれ時間が解決する。だから我慢しろというわけです。
不幸についての考えは我々を苦しめるのではなく驚かせるのだ、不幸について考えるから苦しんという一般的な考えとはだいぶ違いますね。(アランも不幸そのものではなくそのイメージが人を苦しめるということは認めています)
抑うつ病の患者は、どんな考えの中にも悲しくなる理由を見つけ出す
同情されれば侮辱された!と思い、されなければ自分は孤独だ・・・と落ち込む。
そうやって自分の孤独の味をかみしめるわけです(前回も出てきたなこのネタ)
これはすべての悩める人間の拡大された姿です。
抑うつ病患者は、その苦痛がひどくなるのは、自分が抑うつ病であるという触れられたくない真実を他人が理屈をつけて触ってくるからなんだそうですよ。
いますよねこういうめんどくさい&うざい手がかかる人
なので、
悲しみは病気、誰かのせいにせず我慢しなければならないと自分に言い聞かせる
これが解決策であり結論
で、それにうちかつための知恵が「祈り」なんだそうです。祈りというは、思想を形作ることを放棄したもの、つまり辛い、悲しみをいちいちい理由づけることなく、ただ祈りの所作をもって耐え抜くというもの。
それはさながら、”想像力の阿片”だそうです。
うーん。。。
この想像力の阿片だったら、打っても捕まらなかったのにね
槇○○之さん・・・
伊○○○介さん・・・
6.情念
あまり聞き覚えのない情念というワード・・・
※詳しい意味はこちら→コトバンク 「情念」
ギリシャ語でパトスという言葉に置き換えられます。
パトスといえば
ほとばしる熱いパトスが頭に浮かんだあなた
「エヴァ」ファンですね?
これがメンタリズムです(大嘘)
・・・で、本題に移ると
アランは情念は病気より耐え難いもの、なぜなら「うちかつことのできない必然性のしるしを帯びている」から、と表現しています。
例えば病気やケガは、それ自体を除くとほかの部分はうまくいっているわけです。虫歯で歯が痛くても手足は何でもないですから。痛みでイライラはしますけどね・・・
ただ、一度情念に取りつかれたら最後、自分の中の熱いパトスから逃げたり見ない振りしたり、なんてできないわけです。
そうなってしまうと、どんな屁理屈も正しいように思える(自分にとってはですが)
また、人間は喜怒哀楽では苦しまないが、恐怖を感じると、怖がったという事実が恥ずかしくなるとも言っております。
あとから思い出して恥ずかしくなるのは、恥を味わっているのと同じ(二回目の神経衰弱にも出てきましたねこのワード)
で、最終的に、情念=自分自身だが強くて何ともならない、と反省することになります。
この情念の成分に、悔恨と恐怖があります。
「どうしてこうも自分を抑えられないんだろう」←悔恨
「自分の考えが毒されてバラバラになってしまう・・・俺を操ってるのはなんだ」←恐怖
で、情念や情念への奴隷根性が、自分を呪われたものだ。。という観念に導き、ありもしない苦痛にさいなまれ、最悪、自ら命を絶ってしまう。。。
ここでデカルト先生が出てきます
その著書『情念論』(すみませんワタクシこちらは未読でゴザイマス・・・)
情念って、体の動きを支配していると思いがちですが、
先生曰く 情念は、運動に由来するんだそうです。
・・・逆では?と思いますが、
じつはそう考えたほうが気が楽です。
だって、自分をさいなむ情念は何らかの理屈でそうなっているわけでは無く、肉体や血の巡りでそうなっているだけなんですから。
アラン曰く
「道理を建てたがっているのは俺の肉体だ、俺の胃袋の意見とでもいったものだ」
だそうです。
・・・
・・・
胃袋の意見で自分を追い込み、最悪の場合自殺するほど思い悩む・・・なんて、はなはだ馬鹿々々しいと思いませんか?
胃袋は美味しいもので満たしてあげるのが一番です。
え、ワタクシ?
実はこの記事執筆の夕方・・・
ちょっと・・・ね